運命の夕餉


「運命はこのようにして扉を叩く」と楽聖が本当に言ったのかどうかは知らないが、男は敢えてその由来を鵜呑みにして、運命について考えを巡らせる。
「これが運命だとすると、運命そのものは実に素晴らしい音感とリズム感を持っている、ということになるな」
男の妻は夕餉の準備に取り掛かっている。
「それに、運命とは呆れるくらいの執拗さをもって我々に迫ってくるものなのだな」
妻は男の独り言に反応する素振りすら見せないが、運命の干渉からは逃れられないようである。
運命のノック音が俎上に響き渡り、玉葱、にんじん、じゃがいもの運命が、妻の手によって次々と決せられていく。
「こんな調子で迫られたら、そりゃひとたまりもないさ。運命に抵抗するのはかくも難しい。
 女は運命を華麗に取り込んで、或いはまた踏み台にして、平然と澄ましていられるんだ。
 男どもはいつも運命に抗おうと足掻いた挙句、或いは抗う気力もなく、どちらにせよ運命に押し潰されている」
「何よ、その被害妄想」
「妄想じゃないよ。個人的な事実」
「個人的なら充分に妄想じゃないの。妄想はいいから、手伝ってよ」
男は「よっこらしょ」と呟いて立ち上がり、鍋に火をかける妻の横で、まな板や包丁を洗い始める。
「ここは狭いわ。ガスコンロも一つしか置けないし。学生の独り暮らしじゃないんだから。私、もっと広いキッチンがいい」
「うん、そうだね。まあ給料が上がったら、そのうちに」
「いつ上がるのかしら」
狭い部屋に絶え間なく扉を叩く音が響いている。
「あんなにボリューム大きくしたら近所迷惑よ」
そう言う妻の横顔は、近所迷惑など問題ではないといった風情である。
「胎教だよ」
「でもこの曲はあまり胎教って感じがしないのよね。やっぱりバッハやモーツァルトじゃない?」
「そうかもしれない。この曲みたく劇的な子供に育っても、親としてコメントしづらいしな。
 そうだな、バッハやモーツァルトもいいけど、シューマンのピアノもいいよ。うん、それがいい。是非そうしよう」
男は湿ったタオルで手を拭い、いそいそとチャチな音響機器の前に歩み寄る。
その迫力でもってして男を唸らせた運命の昂揚は、スイッチ一つでいとも簡単にぷっつりと途切れてしまった。
妻は優しい微笑を浮かべ、下腹部をそっとさする。年下の妻はいつの間にか母の雰囲気を纏っている。
そして男は未だに青二才だ。この調子でいくと、永遠に青二才のままかもしれない。それは男が男である以上、逃れ難い運命なのだ。
男はピアノの音色に耳を傾けながら、再度独り言。
「俺は音楽に嫉妬しているんだ。ツボにはまれば物語以上に物語らしくなるからね、音楽は。でも俺は言葉で紡がれる物語の方が音楽より好きだ」
妻は何も言わず微笑んだまま、野菜と肉を鍋に投入する。
男が物語で、妻は音楽。そんなとりとめもない喩えが脳裏をよぎる。
その喩えに現実が似れば似るほど、世界は幸福で満たされていくような気がする。男はそんな想像の内に、父としての自分自身を意識してみようとした。
「素敵な曲ね」
妻の感想に対し男は無言でうなずき、やがて来る幸せな日々に思いを馳せた。
幸せの青い鳥は身近なところにいる。もはやそれは匂いで分かる。
そう、だってさ、今夜はカレーだ!





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