祝煙


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私が草部君と初めて話をしたのは大学三回生の夏季休暇後なので、もう六年も前のことになる。
九月末。春学期の成績表を受け取った私は一人で学館一階のベンチに座り成績表を眺めていた。
一回生の時に取得すべき英語科目にまたしてもFが付いているのを苦々しく思いながら私は煙草に火を点けた。
英語は中学生の時から苦手なのだ、でも専門科目に関しては順調だな、などと考えつつ煙草の灰を落とそうとする、と、困ったことに灰皿がない。
これはどうしたことだろう? 夏休み前には確かにあったはずなのに。
きょろきょろと周囲を見回していると、ビラだらけの壁の一角に「禁煙!」と書かれた貼紙を発見した。
その時である。私と同様、右手に煙草、左手に成績表を携えた学生がベンチにどっかり座って成績を吟味し始めた。
彼が草部君であった。
草部君は私と全く同じ行動を経て「禁煙!」を発見するに至り、その場でお互い顔を見合わせて苦笑した。

草部君とは一回生の時にフランス語と体育の授業で一緒だったことがあるので顔と名前くらいは知っていたが、言葉を交わすのはその時が初めてだった。
私達二人はそそくさと学館の外に出、建物裏にある自転車置場の隅っこに喫煙スペースを見つけたのでそこへ移動した。
「お互い肩身が狭いですね」
「せやな」
「また値段も上がるらしいですよ」
「俺、禁煙しようかな」
などといった他愛もない話をしたのである。
そこへ偶然、私と同じゼミに所属している三井瀬君が自転車を取りに来た。彼は私達が話しているのを目にするなり、
「あれ? 何やお前ら知り合いなんか?」
と言った。聞けば、草部君と三井瀬君は同じサークルで活動しているのだという。
この後、三人で飲みに行くことになり、私はすっかり草部君と仲良くなったのだ。

草部君は大学の付属高校出身で、商学部の学生であった。一浪を経験している私よりも一つ年下だ。
かつては高校球児だったらしく、いかにも体育会系といった感じの折り目正しい好青年である。
そういえば体育の授業の時も彼の運動能力は目立っていたなあ、なんてことを思い出した。
大学に入ってからは演劇サークルに入り、三井瀬君ともそこで知り合ったらしい。ちなみに三井瀬君は二浪を経験しているので私よりも年上だ。
飲み会では禁煙のことが話題になった。
「夏休み中に文学部の建物でボヤが起きて屋内は全面的に禁煙になったらしい」
三井瀬君は学内の事情に詳しい。
「そういうことがあったんか」
「らしいで。ボヤを起こしたのは哲学専攻の院生らしいけど、たまたま史学専攻の史料室が近くにあって、そらもう大騒ぎやったらしいわ」
「馬鹿大学院生のせいで俺らが肩身の狭い思いをするわけか」
「でもまあ時代の流れやな。遅かれ早かれそうなったやろ。RK大学ではキャンパス内が全面禁煙になったらしいし」
「分かっとらんなあ。学問と喫煙は切っても切れない関係やのに」
「そうそう。煙草がないと眠くて論文なんか書かれへんわ」
草部君と私が量産した吸殻が灰皿に堆く盛られている。
三井瀬君は子供の頃に喘息を持っていたので煙草は吸わないようにしているらしいが、熱狂的な芥川龍之介信者なので喫煙に対しては理解がある。
「百害あって一利なしなんて言うけど、あ、○○さん、何か飲まれます?」
「その敬語やめてくれや。同じ三回生やんけ」
「こいつはこうゆう奴やねん。俺に対しても始めはそうやったで。今じゃタメ口どころか命令してきよるけど」
「命令は言い過ぎやで。すんませーん、注文いいですか? 生中とシングル水割り一つずつ」
「枝豆も」
「でも百害あって一利なしなんて言うけど、それは唯物論的というか、ロマンがないですよねえ」
「そうそう。吸って幸せな気分になれたらそれだけで、利あり、やもんな」
「身体に悪くて臭いのが駄目なら、排気ガスも駄目だから車なんかに乗るな、ってな理屈になってまう」
「そもそも社会は無菌状態の保育器じゃないんやから、多少は臭くて煙たくてもいいのである」
「嫌煙家とかいう人種は世の中が自分にとって好都合に動くと思っている。この考えは改めるべきである」
「今、草部がいいことを言った」
「私怨を義憤に無理矢理挿げ替えてるだけですけどね」

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